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『プラトン全集』第6-7巻

たまたま図書館で第4-5巻が借りられていたので先にこちらを読んだ。

第6巻

『アルキビアデス I-II』、『ヒッパルコス』、『恋がたき』を収める。訳者解説によればプラトンの真作と見なされているのは『アルキビアデス I』だけであるらしい。

実際『ヒッパルコス』はあまりに無内容に見えるし、『恋がたき』はまとまりが良すぎるように感じる。

『アルキビアデス I』

ソクラテスが美少年アルキビアデスを口説きつつ対話に導く。まもなく成年するアルキビアデスが議会においていかなる助言をするつもりなのか、とソクラテスが問いただし、アルキビアデスは正と不正とについてであると答えるが、かれがそれについて無知であることが対話により明らかにされる。そこで二人は自己自身に気をつけることについて探求し、それが節制 sophrosyne に他ならないということに決着する。これを踏まえてソクラテスは正義と節制とを身につけるようアルキビアデスに勧める。

『アルキビアデス II』

ソクラテスとアルキビアデスとの対話。祈願のため神殿に赴くアルキビアデスに、無思慮に基づく祈願は害悪をもたらしうるとソクラテスが指摘する。精神異常と思慮、また無思慮と思慮との関係が吟味されることでこれが確証される。他方で無知がかえってわざわいを避ける場合があることも指摘される。最後にソクラテスはスパルタの例を挙げて、正義と思慮とを学び知るまでは祈願をひかえるべきだと諭す。

ヒッパルコス

利得を得ることが不正でありうるかということについて友人とソクラテスが議論するが、特に結論も得られないまま終わる。

『恋がたき』

たがいに恋敵の関係にある二人の青年がソクラテスと対話する。内容としては、知を愛し求めることを博学と同一視する一青年に対し、それでは哲学者は各分野において二流どころに甘んじることになり、それは無価値である、とソクラテスが諭す、というもの。

第7巻

『テアゲス』『カルミデス』『ラケス』『リュシス』を収める。訳者解説によれば『テアゲス』は偽作の可能性があり、他はいずれも真作で初期対話篇に属する。

勇気や節制の議論などは読んでいて『神学大全』の人間論を思い出した。

『テアゲス』

デモドコス、その子テアゲスとソクラテスとの対話。知者たることを望むテアゲスに対し、かれの求めている知恵のなんたるかをソクラテスが吟味する。国家を支配し、かつ僭主としてではなくペリクレスのようなアテーナイの政治家がしたような仕方で支配する術である、ということが明らかになる。次いでソクラテスは、それなら誰に就いて教わるのがよいかということを問題にし、政治家自身かれらの知識の教師足りえてないことを指摘する。そこでテアゲスはソクラテス自身に教えを請い、ソクラテスもためらいつつ結局はこれを受け容れる。

『カルミデス』

クリティアスがソクラテスに、美少年カルミデスのことを克己節制(思考の健全さ)sophrosyne において優れた人物であると紹介し、ソクラテスがカルミデスに sophrosyne とは何かを問う。やがてカルミデスはクリティアスから聞いた「自分のことだけをすること」という定義を提示し、ここでクリティアスとソクラテスの対話に移る。クリティアスはそれを「自分自身についての知」と、次いで「知についての知」と同一視するが、いずれも sophrosyne とは合致しないことが吟味の結果示される。ソクラテスは最後に、それでも sophrosyne はなにか良いものに違いないとし、探究が失敗に終わったことを残念がる。

『ラケス』

ニキアス、ラケスとソクラテスとの対話。「勇気とは何か」というソクラテスの問いに対して二人が意見を述べ合う。まずラケスが、戦列を離れないことである、と定義するが、それは勇気の全体を尽くしていないとソクラテスは指摘する。これを受けて忍耐心であると定義を修正するが、これも斥けられる。次いでニキアスが「恐ろしいものと恐ろしくないものとについての知」であるという定義を提示する。これに対してソクラテスは、恐ろしいもの・恐ろしくないものとは予期される善悪に他ならないが、一つの知は過去・現在・未来すべてにおける対象を心得ているもので、するとニキアスの定義は端的に善悪についての知、すなわち徳の全体であると指摘する。やはり結論が出ないまま議論は終わる。

『リュシス』

クテシッポス・メネクセノス・ヒッポタレス・リュシスとソクラテスとの対話。「友とは何か」を主題とする。「愛するもの」「愛されるもの」「愛し愛されて生きるのさもの」という定義がいずれも斥けられ、似ているもの・反対のものが友であるという定義もそれぞれ否定される。次いで「善くも悪くもないもの」が善きものを友とする、という規定が吟味され、ソクラテスは、そのときそうしたものは悪のゆえに・善のために友とするのだ、と指摘する。またこのとき友の系列を辿ってゆくと「第一の友」に行き着くとする。だが結局これも否定される。最後にソクラテスが「自分のもの・血縁のもの oikeion こそ友である」という説を提示し、これを吟味して結局は斥ける。