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P. K. ディック『高い城の男』

62年の作。連合国が枢軸国に敗北した if を描く。秀作。しかし結末がよく分からない。

易経』が本書においてたんなるギミックをはるかに越える役割を果たしていることは衆目の一致するところだろう。実際、易を物語の本筋に導き入れんがために、本書において描写の濃淡が厳密に計算されていると言っても過言ではない。『易経』というやや見慣れない道具立てを導入するには、例えばやや陳腐なオリエンタリズムが必要とされる。大日本帝国と日本人の驚くほどニュートラルかつ抽象的な描写。道教と仏教、神道はなし。血なまぐさい派閥争いが大問題となるナチスと比べて、国家構造の描写もはるかに曖昧である。共栄圏ではなんと字義通りの五族協和が実現されている。東アジア諸国は第三世界同様、全くといってよいほど前面に出てこない。日本が世界の半分を占める東洋を表象し、さらに田上信輔と『易経』が日本を表象する。舞台設定は二元論的な相剋に収束し、物語はひといきに形而上学的な主題へと接続することになる。

易経』の一連の託宣は大いなる権威である。それは物語世界において、迷える登場人物の将来を予言し、進むべき路を指し示す。とりわけ田上とジュリアナの場合はつねに明瞭かつ的確といえる。反対に最も曖昧で謎めいているのは、おそらく最後の場面、『易経』が「中孚」を指し示すくだりだろう。『イナゴ見重く横たわる』の物語が真実であることが示される。けれども『イナゴ』の世界は物語世界内の虚構にすぎず、また『高い城の男』の著者と読者の住む世界のことではない。そして話の筋を追う限り、易経が指し示したのは世界のあるべき姿、最善世界、でも――私たちがそれを判定できると仮定しての話だが――恐らくない。したがってアベンゼン夫妻同様、私たちはジュリアナの解釈を受け入れることはできない。

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)