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『読書について』について

読書について 他二篇 (岩波文庫)

読書について 他二篇 (岩波文庫)

ショーペンハウアーの読書論について書いたもの。概して以前同書を読んだときほど共感しない。もっとも重要なのは、こうした(常識的な、と言ってもよいような)駁論にも関わらず、自ら思考し判断することの重要さに関する彼の直観が有効でありうる領域を画定することだろう。

 今回取り上げるのはショーペンハウアーの著名な読書論である。はじめにテクストの身分を明らかにしておくと、本書所収の三篇は、かれの主著『意志と表象としての世界』に付された大部の『付録と補遺』から抜粋し採録されたものだ。いずれもアフォリズム形式で書かれており、内容は本を読むこと・書くことから同時代の出版事情、さらにはドイツ語の乱れへの抗議にまで及ぶが、いずれにせよ思索と読み書きとの関係が一貫したテーマとなっている。ざっと目を通すかぎりは流麗で引っかかりのない美文である一方で、精しく読みほどくならば、その問題構制は予想外の深み、したがって議論の余地、を有すると分かるだろう――多くのすぐれたアフォリズムがそうであるように。だが、まずはショーペンハウアーの論旨を追うことにしよう。

 三篇に通底するのは、すぐれた思索者とは自ら考えること Selbstdenken をよくする者である、という信念である。多読はこれを妨げる、というのも読書で得られるのは他人の思想に過ぎないからである。それらは「それぞれ異なった精神を母胎とし、異なった体系に所属し、異なった色彩をおびていて[…]創世記のバビロンを想わしめるような言葉の混乱を頭脳の中にまきおこし、あげくの果てにそれをつめこみ過ぎた精神から洞察力をすべて奪い、ほとんど不具廃疾に近い状態におとし入れるからである。」(11-12頁)そこまでいかずとも、「読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない」(128頁)以上、勤勉な読書はたやすく思考力の減退を導く。むしろなすべきは自然で明晰な思索である。それはおのずと一つの体系を形作る。真の思索はペンさえ必要としない。書くために考えるのではなく、十分に考え抜いた後に筆を執るべきである。あるべき思想は明晰な文章により表現される。ショーペンハウアーの文体についての数々の警句や同時代の出版物の体たらくへの嘆きはみなこうした考えのコロラリーであると言ってよい。

 これらの文章をたんに読書術・執筆術・思考法にまつわる実践的な金言集として扱うのはおそらく正当ではない。なるほど本書では有用な教訓、例えば明晰に書くにはこれこれのことをしなければならぬというたぐいの仮言命法、の数々が提示されており、それらの多くは――第一にドイツの同時代人に向けられたものとはいえ――我々の営みにも十分通用する。我々は普段から随意にものを考えるのであって、その時々にショーペンハウアー先生の訓えを用立てることはできよう。より問題含みなのは、けれども、自ら思索せよという冒頭の定言命法であろう。熟考すればいくつかの困惑にやおら直面するはずである。第一に、自ら考えるとは畢竟どういうことか。それはたんに直観に頼ることを意味するか否か。またそれは例えば巨人の肩の上に立つごとき通常のやり方と相容れないのか。あるいは対話による思索の深まりといった事態をどう見るべきか。自ら考えるという原則をやみくもに貫徹することで隘路に陥りはしないか……。もちろんこの原則には、疑わしいのと同じくらいもっともな面がある。本書冒頭でショーペンハウアーが強調した精神の体系性の維持はその重要な効用の一つであろう。より広く、諸々の考えが全体として筋道立っていること、と言い換えてもよい。しかしショーペンハウアーは「思索」という語を用いるさいにおそらく自身の哲学の営みを念頭に置いている。より実際的な、多様な現実を前にした諸判断についても、同様のことが言えるだろうか。『読書について』は思考を、身辺のことに関する「主観的な」ことがらと、より「客観的」・理論的なことがらとに二分しているけれども、例えば複雑な政治社会の諸領域においてこうした二元論ショーペンハウアーの時代にあってさえ維持可能であったとは思われない……。こうしたことがらを前にして、再び思考と読書とのあるべき相関について、我々は自ら判断する必要がある。そして我々の結論はショーペンハウアーのそれほど明快なものとはなりえないだろう。