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中井久夫『分裂病と人類』(、『西欧精神医学背景史』)

西欧精神医学背景史 【新装版】

西欧精神医学背景史 【新装版】

『分裂病と人類』は「分裂病と人類」「執着気質の歴史的背景」「西欧精神医学背景史」の三篇を収める。最後の論文はみすず書房から単著としても出ており、こちらは図表が概してより豊富で、注も多く(UP版26に対しみすず版は全22章の各章ごとの数個から数十個の注に加え181冊の参考文献が挙げられている)、さらに「1999年の追記」と題された跋文が付されている。

「執着気質の歴史的背景」は、うつ病好発性格としての日本における「執着気質」やドイツにおける「メランコリー型」が両国の文化圏外で臨床的にほとんど認められないという事実、および両気質の職業規範との関係の深さに着目し、執着気質の日本における文化的被規定性を闡明する。

具体的には二宮尊徳の事跡を通して勤勉と工夫による「世直し」の倫理が検討され、これが農民階級の当為の主調をなしていたと論じられる。「立て直し」の倫理は復興の倫理であり、建設的な「世直し」の倫理と対照的であって、例えば中国においては大規模な治水事業王安石の新法、蒋介石の新生活運動等々に示されるように「世直し」が多くはより現実的な選択肢であったのに対し、日本においてそれは弥勒や鯰信仰のごときひ弱で幻想的なものに留まった。商人階級についても、元禄期を境に室町以来の大商人は没落し、代わって辺境の農民が「越後屋」「近江屋」の屋号を立て上のごとき農民倫理に基づく経営を行うようになった。

武士階級に関してはどうか。この階級は絶えざる修練と緊張を強いられ、一方ではアイデンティティたる武芸の無用化や土地的基盤の希薄化に耐えねばならない、いわば「根こぎされた支配階級」であって、結果そのエートスは自己抑制と「型」の倫理に転じていった。このことを中井は大石良雄の事跡と森鷗外の詩の解釈をもとに具体的に論じている。曰く大石は江戸前期の合理的な町人倫理と自己抑制的な武士道の境界に存在しており、1702年の討ち入りにおける行動の積極面を担ったのはあくまで前者であった。一方で自己抑制の原理としての武士倫理は晩年の鷗外にまで通底する。

第一章「分裂病と人類」は「執着気質の歴史的背景」執筆の後、同様の視点を分裂病に適用すべく書かれたもので、こちらの執筆にははるかに苦労した、とあとがきには記されている。実際、議論の範囲ははるかにグローバルで、その分次章ほど記述がまとまってもいないように思われる。いずれにせよ木村敏のいわゆる ante festum 的な構えという捉え方を基調として、文化と統合失調症との相関を描いている。

「西欧精神医学背景史」はヨーロッパにおける古代から現代に至る精神医学と思想・宗教・政治その他との絡み合いを文明史的な射程において網羅的に論じたもので、論述の密度は極点に達している。一つだけメモしておくと、魔女狩りは中世ではなくルネサンス期の産物であり、その終焉と近代医学成立とは同時であった、という指摘は印象深かった。曰く魔女狩りとはルネサンス期の万物照応的な世界観、すなわち統合主義 syntagmatism、による困難への対応の失敗によるもので、これを取り消して現実的な勤勉の倫理と範例主義 paradigmatism へと転化する一契機であった。一方例えば日本においてはネオプラトニズムを担い得たであろう比叡山は信長の焼き討ちに遇い、結果 syntagmatism を経ることなく paradigmatism による近代化が成り立ったという。……いかなる博捜がかくも縦横無尽な議論を可能にするのかちょっと想像がつかないし、とりわけ近代以降に関するほとんど全ての章は消化不良に終わっており再読三読を要する。もっとも終章の西欧とイスラームその他との比較文明論は少し大雑把にすぎるように思われる。

みすず版の「1999年の追記」は、無意識という観念の西欧における――例えば日本においてはそれほどでもない――インパクトの背景にある conscience(意識 = 良心)という考えの存在、および本稿初出の70年代より以降の潮流、に関する覚え書きとなっている。