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D. スペルベル『表象は感染する』

表象は感染する―文化への自然主義的アプローチ

表象は感染する―文化への自然主義的アプローチ

原題は Explaining Culture: A Naturalistic Approach. 唯物論的(物理主義的)観点から人類学の方法論を見直し、文化の自然主義的な説明を試みる。

議論はかなり込み入っている。さながら心の哲学の応用版といったところか。とくに5-6章は全然話を追えてない。

以下は1-2章の内容。これらの章では既存の人類学の方法論に検討が加えられる。

概要

自然科学は、共通した唯物論的存在論に立脚することを一因として、高度な整合性を保っている。人類学においてはどうか。すなわち、文化的事象はどのように存在するのか。一つ目の立場、空っぽな唯物論 empty materialism は、そうした事象はもちろん物質的だと述べつつ、それ以上のモデルを展開しない。力、革命 revolution、再生産 reproduction といった語彙は単なる隠喩の域を出ない。二つ目は自己矛盾した唯物論、すなわち一方であらゆる事象を物質的と見なしつつ、他方で物質的側面が非物質的側面を決定するとする立場である。けれどもこの立場も、またそのアドホックな修正もうまくいかない。とはいえ、唯物論を離れた二元論・多元論的な立場は、文化の自立性を措定することで、人類学を生物学その他の自然科学から決定的に隔離してしまう。

こうしたジレンマを解消するために、心理学を参考にできるだろうか。現在の認知科学に関連する形の唯物論は、心的過程のトークンが神経過程のトークンと同一であることを認め、タイプにおける同一性は含意しない。これは穏健な立場だが、神経科学などと結びつくことで多くの実質的な帰結が伴う。だが、人類学に同様の立場を適用したところで、空っぽな唯物論の焼き直しにすぎなくなる。文化の過程は心理的過程のように同質的ではないし、物質への具現化の仕方も分からない。さらに、心理学には一揃いの受け入れられた――信念・欲望・記憶・推論・想像などに関する――知識があるが、人類学にはそうした枠組みがない。もちろん多くの専門用語はあるけれども、それらは存在論的帰結をもたない、いわば解釈のための道具なのだ。

ニーダムが指摘するように、人類学の専門用語は多配列的 polythetic である(家族的類似性をもつ)。つまりある事象を包含するための十分条件の束を指定できない。さらに一歩を進めて、人類学用語における類似性は、事象間の類似性ではなく、それらの語により解釈される観念間の類似性(解釈的類似性 interpretive resemblance)であると言える。例として goblin, leprechaun, imp, gnome といった語の間の類似性が挙げられる。こうした概念は外延への存在論コミットメントを行わない。ギアツが述べたように、人類学における説明が解釈に他ならないのであれば、goblin といった語と同様に、婚姻 marriage、供犠 sacrifice、首長職 chiefship といった語を用いた説明も、それらが実在的要素かどうかについて何も教えないのである。例えば、リーチは婚姻を定義づける10種類の権利を挙げ、すべての事例に認められる権利が存在しないことを明らかにしている。つまり「婚姻」は多配列的である。

さらに解釈的であることの説明として、エベロ族という架空の部族を例に取ろう。エベロ族を調査する人類学者は、人びとの婚姻の風習をいかにして同定するだろうか。関係を実見することによってではない。むしろ、現地人のことばのなかで、ある語が「婚姻」として最も整合的に解釈できる、と判断することによってなのだ。エベロ族の場合は、「クウィス kwiss」すなわち「祖先の精霊に祝福された一組の男女の結びつき」がそれにあたる、としよう。ここで、人類学者は、A と B が婚姻(クウィス)している、という信念を自ら抱く必要はない。人類学者が唯一存在論的にコミットすべきものは、エベロの社会の中を循環する「(A と B の間の)クウィス」という表象に他ならない。(他に「カースト」「戦争」「物語 tales」なども同様の解釈用語である。たしかに色彩分類や性比などの非解釈的な用語は存在するが、それらが文化なる存在者を構成するわけではない。)

したがって、文化を説明するのに、表象の疫学モデルとでも呼べるものを考えられる。ヒトの個体群には大量の表象の個体群が存在し、その一部は感染する get communicated。特にあるものは持続的に広く蔓延する。感染の過程は公共的表象と心的表象の因果的連鎖であり、それらはいずれも、物理的状態や事象、あるいは脳状態として唯物論的に説明できる。(以上、1章)

これまで人類学者はどのような仕方で文化的表象に取り組んできたのか。最もありふれた方法は、いくつかの方法論的な留保はあるにせよ、常識に基づく解釈を基本的な証拠として用いるやり方である。ある事柄を証拠として用いるための要件は、それが確証・反証の対象である理論よりいっそう信頼できることであり、常識による解釈は通常これをクリアする。

一方で、さらに踏み込んだ理論的作業も行われてきた。一つには、さらなる解釈的一般化がそうである。例えば擬娩をダグラスは「父性の素朴な証明」とみなし、レヴィ=ストロースは「子供の役割」の演技とし、マンジェはさらに抽象的に「人間の時間の不可逆性を意味する」ものと考えた。こうした解釈の問題点は、第一に通文化的解釈であるためにローカルな事柄を顧慮しておらず、より不正確であること、第二に意味を付与することによっては因果的な説明は得られないこと、である。

第二に、構造主義的説明が挙げられる。それらは文化的表象の要因をテーマに基づくヴァリエーション、有限な要素の組み合わせ、構造の規則的変換のいずれかであると見なす。もっともここには、構造分析の精度は基となる解釈の信頼性に完全に依拠するという弱点があり、加えて構造分析は文化の特性のどれが基本的なものなのかを明らかにすることはない。要するに、説明されるべきことを提示するが、説明はしない。例えばレヴィ=ストロースは神話群の基礎構造を人間精神の構造と見なしたが、その心的メカニズムの心理学的説明は全然提供しなかった。

第三は機能的説明である。機能分析は数多くの社会学的洞察をもたらしたが、やはり問題を含む。まず、ほとんどの文化的制度は集団の存続に影響を及ぼさない。したがって機能的説明が適用できる制度は限られている。また機能分析は文化形態の移入や変換も説明しない。さらに、分析のために文化現象の型を同定するさいには、解釈的一般化に無批判に依拠することになる。

これらの説明と比べて稀にしか言及されないが、文化的事象の因果的説明、すなわち表象の疫学、が研究されるべきである。疫学的アプローチからすれば、説明されるべきことは、ふるまいの因果連鎖の心理学的・生態学的要因である。疫学的アプローチは、例えば不幸の予防を目的とした慣習行動の存在を認知バイアスから説明できるだろう。なぜ特にその行動(例えばチカオ族の擬娩)になるのか、ということは、表象の有意性(relevance?)という観点から説明できよう。具体的には、人びとの認知活動やコミュニケーションが行われる具体的文脈を研究する必要がある。こうした研究においては、常識的な解釈の枠組みを超えた特殊な解釈学は必要とされない。さらに疫学的アプローチは、文化的事象のタイプを同定する方法を与える。すなわち文化的なタイプ(ex. 口述と筆記)を因果的役割の特徴(ex. 安定性のちがい)から説明できるという長所を持つのだ。

感想

そんな無茶な、という感じのプロジェクトだけれど、一応筋は通っているように思える。議論の妥当性はひとえに疫学的アプローチが実際の研究でどれほどの効力を発揮できるのかにかかっているのではないか。本書で具体的応用が十分に展開されているわけではないし、そもそも自分に人類学や認知科学の素養がないので判断できない。

一番むつかしいのは「表象」という語で、結局これが何を意味しているのか分からない。認知科学の術語なのかしらん。あと、「婚姻」「供犠」などの語が解釈的であり、色彩語はそうではない、というのは分かるけれど、「戦争」や「物語」がすでに解釈的だと言われると少し面食らう。前者は友 / 敵の観念を含むからだろうか。では殺人や傷害は非解釈的なのか。「物語」が解釈的でも「フィクション」はどうか……とか、色々思うところはある。