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山腰『コミュニケーションの政治社会学』 / リリカー『政治コミュニケーションを理解するための52章』

山腰修三『コミュニケーションの政治社会学

批判的な政治コミュニケーション研究の理論を整理し、日本における事例へ適用した研究。第I部は理論的検討、第II部はその応用。

なにぶん未知の分野の専門書なのでいつにも増して理解が心もとない。以下の話は多分に議論を単純化しすぎているかもしれないが、書いた以上のことは読めていない。

概要

日常生活におけるミクロな権力作用、および多様なオーディエンス間の対立を、カルチュラル・スタディーズ(以下CS)における批判的コミュニケーション論は追究した。けれども、そうした状況からいかにして支配的世論が成立し、マクロな政治過程に反映されていくのか、ということはなお明らかにされていない。この問いに、三つの視座――CS、批判的言説分析、ラディカル・デモクラシー論――を関連させつつアプローチする。

スチュアート・ホールの初期のエンコーディング / デコーディングモデルは、メディアを通じたコミュニケーションが送り手-受け手への単なる(成功 / 失敗を一律に定められるような)情報伝達ではなく、受け手は多様な読み(優先的・交渉的・対抗的読み)を行う、というモデルである。このモデルの対象はマスメディアだけでなくポピュラー文化などを含む日常生活の領域全般にまで広げられ、能動的オーディエンス論として確立した。こうした受け手としての民衆の能動性は「記号論的権力」(フィスク)と捉えられ、記号論的民主主義の可能性が論じられた。

一方で、こうした方針には異論もある。まず、記号論的民主主義は「消費者主体の多様性という保守的イデオロギーに簡単に収まってしまう」(モーレイ、p.35)。アイデンティティの固定化に抵抗するオーディエンスという視点が、むしろ導入されるべきである。加えて、ここまでのオーディエンス論は「政治的なものの位相」を捉えられておらず、したがってミクロな権力とマクロな政治過程との関係に迫ることができていない。こちらはラディカル・デモクラシー論からの批判である。

CSの第一の転換の契機はイギリスにおける新保守主義の台頭である。76年のポンド危機、および78-79年にわたる「不満の冬」を通じてイギリス政治が揺らいだのを機に、保守党は「法と秩序」キャンペーンを打ち、成功を収めた。サッチャー政権は労働者階級を含む民衆に少なからぬ打撃を与えたにも関わらず支持され続けた。つまり新自由主義の言説がヘゲモニーを握り続けたのである。ここにおいて、エンコーディング / デコーディング理論は次の問いに答える必要に迫られる。すなわち、なぜ「多様な読み」が縮減し、「合意」へと変容するのか。ラクラウとムフらの概念構成を部分的に借りつつ、ホールは次のように答える。すなわち、ヘゲモニーを握る秩序が、自らの勢力の言説を「人民-民主主義的 popular-democratic」要素(ex. 自由、ナショナリズム)へと節合 articulate することによって、である。

節合、すなわち意味連関の形成は、たんなるレトリックとは限らず、実質的な次元においても行われた。例えば「市場」「個人の選択」といったキーワードのもと、医療政策と教育政策という本来は別々の論点であるはずのものが一括りに論じられるなど。さらに、こうした言説の形成は、マスメディアの間で間テクスト的に行われた。 The Times, The Daily Telegraph, The Economist などの高級紙は新自由主義的な言説を拡散し、The Daily Mail, Daily Express, Daily Star, The Sun などの大衆紙は伝統主義的な言説を担った。各メディアは個々の争点で意見が異なっていたとしても、それらを超えた次元における言説の再生産・再編制を担ったのである。……ホールの以上の主張を裏付ける形で、フェアクラフはより実際の報道に即したテクスト分析(批判的言説分析)を行っている。

ラクラウは「新しい社会運動」を捉えるモデルとして「等価性の論理」を提唱する。これによれば、まず個別的な不満、要求、が社会のうちに「差異」として存在する。差異は解消されることもあれば、持続することもある。第二に、ある時点で複数の「要求」の連帯が生じる。そうした諸要求はある「目標」を共有する。これがヘゲモニー闘争の発生である。つまり要求 A=B=C が等価なものとして現れ、それらの意味構築を抑圧する D に敵対する。「目標」がさらに普遍的なシニフィアンとなる段階もあり、これは既存の社会秩序の再編制へとつながる。ここで「目標」が普遍的なシニフィアン(「空虚なシニフィアン」)として働くことの根拠は、ある要素の意味の「絶対的根源」は存在せず、いわばそこに「究極的な決定不可能性」があり、したがって要素間の関係は常に流動的であること(デリダ)である。

以上のような概念構成を踏まえ、日本における事例を分析する。第一に水俣病の事例を見ていく。公害対策といった観念は以前より存在したにも関わらず、水俣病への対応は大きく遅れることになった。結論から言えば、対応を妨げたのは「高度経済成長」をめぐる一連の意味連関であると言える。中野好夫の「もはや戦後ではない」という発言は、日本は一小国として平和・福祉国家を目指すという新たな価値観を創造すべきである、という論脈のうちにあった。だが昭和31年の『経済白書』でこの文言が引用されたとき、それはむしろ「近代化」としての高度経済成長を表していた。(ここで「近代化」は transformation のことであると定義されているが、『白書』内の実際の用法はこれを逸脱し、むしろ普遍的シニフィアンの役割を担っている。)一方、同年の『厚生白書』はこの論調に対抗して、復興にともなう経済成長に取り残された貧困層の存在を「社会のゆがみ」として指摘し、社会政策の重要性を強調した。『厚生白書』はしかし、回を重ねるにつれて、対抗的言説としての力を失いはじめる(ここには省庁文化のセクショナリズムが反映されている)。社会政策の理念は、経済政策に合わせる形での「福祉国家」としての発展に切り替わっていくのだ。さらにメディアの言説も、「高度経済成長」という理念を所与とするようになる。

水俣病の事例において、これらはどう作用したか。まずチッソオクタノール生産は、化学産業の発展に不可欠なものとして事実上の国策であった。長らく排水停止命令が出されなかった背景にはこの事情がある。加えて、社会政策を経済との意味連関を中心に捉える風潮が、水俣病がメディアに取り上げられるさい、漁民の「貧しさ」のみを問題化する論理、見舞金によって問題が「終結」するといった発想につながった。ハリンの「合意、論争、逸脱の領域」モデルに基づいて言えば、水俣病の現象は「正当な論争の領域」にさえ組み込まれず、ヘゲモニー闘争の外部である「逸脱の領域」に追いやられていたのである。他方で、後には水俣病と他の現象との等価性の連鎖が生じ、「環境問題」などの対抗的言説がもたらされたという側面も存在する。

以降の章では中曽根政権における言説の編制(6章)、テレビ・オーディエンス像の変遷(7章)、小泉政権のテレビ政治(8章)、が分析される。6章ではイギリスの新保守主義の台頭に対するフェアクラフらの言説分析と同様の手法が適用される。7章はテレビ・オーディエンスの調査においてオーディエンスの能動性・多様性が一貫して希求されてきた次第を明らかにする。8章は劇場型政治を通じた「多様な読み」の縮減のメカニズムを追跡する。詳細は省略。

感想

前半は学説の整理なのだけど、どの学説も明確に左派的な問題意識が先立っていて、変革のヴィジョンを与えてくれるような分析枠組みを求めていくという仕方で発展している、ように描かれている。これはちょっと面白いと思う。例えば生物学でこれをやるのは(ピンカーが批判するとおり)明らかにまずいわけだけれど、社会学では受け入れられる、というあたり。

議論の要となるラディカル・デモクラシー論については、内容を初めて知ったけれど、結構面白いと思った。もっとも現時点でいくつか疑念がないではない。例えば、普遍的なシニフィアンに多様な要素が接合して一つの意味連関を形作る、というモデルは説明力が高いと思うけれど、むしろ高すぎやしないか、とか。あと「要求の連帯」という表現は概念や理念の連合と人びとの連帯を一緒くたにしてしまわないか。加えて、「空虚なシニフィアン」の理論的背景としてデリダのよく分からない説明がなぜ必要なのかよく分からない。果たして、概念がある面で充分に抽象的だから正反対の政治的帰結を生むような具体化を許してしまう、という以上の話なのかしらん。原書を読まないとなんとも言えない。

D. G. リリカー『政治コミュニケーションを理解するための52章』

政治コミュニケーションを理解するための52章 (Key Concepts in Political Communication 2006)

政治コミュニケーションを理解するための52章 (Key Concepts in Political Communication 2006)

  • ダーレン・G・リリカー『政治コミュニケーションを理解するための52章』谷藤悦史訳、早稲田大学出版部、2011年。

関連して読んだ。キーワード説明とそれにまつわる議論を紹介している。こちらにはCSもラディカル・デモクラシー論もほとんど出てこない(一つの章でホールの著作が一冊紹介されているだけ)。理論語よりは実際の政治現象を指示するための(いわば低レイヤーの)概念を説明したもの。