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森本あんり『反知性主義』

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体 (新潮選書)

  • 森本あんり『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』新潮選書、2015年。

概要

アメリカ的なるものとしての反知性主義の歴史的背景を示す。「反知性主義」という言葉自体はマッカーシズムの時代に作られたものだが、その原点はずっと以前にさかのぼる。

まず、反知性主義の最初の前提として、リベラル・アーツを重んじる特殊アメリカ的な知性主義がある。そもそも初期入植者は例外的な高学歴社会を形成していた。とりわけ牧師は独立革命までの通算で95%が大卒であった。ハーバード大学は、入植まもない当時急務であった牧師の養成を担う大学として設立されたが、専門的な神学を重視したカリキュラムを採用せず、むしろ聖書解釈に必要な人文主義技法を身につけることを重視した。これはプロテスタント的な万人祭司の理念に基づく方針だった。その後設立されるいわゆるアイビー・リーグ諸校も同様である。こうして育成された牧師は、基本的に地域社会の構成員全員の出席が義務とされる日曜礼拝において、高度な内容の礼拝や講義を行うことになる。こうした社会全体の知的統制が、反知性主義を準備することになる。

反知性主義の出発点は18世紀の信仰復興運動(リバイバリズム)、すなわち大規模な回心現象であり、その担い手はジョージ・ホイットフィールドなどの巡回説教師であった。この現象にはさまざまな要因がある。移民の急増や世代交代によって、当初はセクト型だったピューリタン社会がチャーチ型になるにつれ、名目上は教会員籍をもつが充分な信仰を持っていないと感じる人びとが増える。一旦運動が始まると、新興の大衆メディアがリバイバルの報道や記録を一つの情報ジャンルとして確立し、これに拍車をかける。説教師は野外集会を催し、旧来の牧師の説教とは異なる平明な語り口で人びとを魅了する。一方でそれは一種の集団ヒステリー現象でもあり、自殺や精神錯乱などの逸脱も呼び起こした。ともあれ、リバイバリズムの福音主義は分派横断的にアメリカ中に浸透し、長期的にはナショナル・アイデンティティの礎ともなった。またラディカルな平等の理念は後の黒人解放運動や女性解放運動とも結びついている。

そもそも、アメリカ的な平等のラディカリズムには次のようなやや複雑な背景がある。確かにキリスト教は「神の前の平等」を標榜するが、ルターによる農民反乱の弾圧の勧告にすでに見えるように、プロテスタントにおいてさえ神の前での平等は社会的平等と必ずしも結びつかない。そのため初期植民地においてバプテストやクエーカーなどの分派による社会的な反抗は徹底して弾圧された。一方でこうした分派に属する人びとはラディカルな平等主義を唱え、後にはリバイバリズムを支えることとなる。これらの分派は理神論者で既存の境界に不信感を抱いていたマディソンなどの建国の父祖たちと手を結び、公定教会制度の廃止(すなわち政教分離)、信仰や良心の自由の憲法への明記などにつながる。

第二次信仰復興運動は1820年代から30年代にかけて生じる。これはジャクソニアン・デモクラシーと軌を一にしていた。政治の世界において、ジェントルマンであることがむしろ不利に働く時代となった。19世紀末の第三次信仰復興運動になると、信仰とビジネスが明白に結合するようになる。キリスト教に基づく平等の理念と経済的な実用主義が、叩き上げ self-made、自助 self-help の精神により結び付けられるのである。同時に宗教の娯楽化にも拍車がかかる。20世紀初頭にはビリー・サンデーが登場する。彼はまさに叩き上げの説教師で、単純素朴な道徳主義と成功の論理に基づいて行動する、アメリカン・ドリームの体現者であった。

反知性主義はさまざまな形で現代アメリカにもそのまま残っている。テレビ伝道やメガチャーチ礼拝などはその直系であるし、自己啓発もこれと大きく関わっている。「知性」への反対という面で言えば、反知性主義とは知性の越権行為を見張る動きであり、知性と権力の固定的な結合を批判する平等主義である。ここには反知性主義の正当な意義が認められると言ってよい。例えば日本においてはこうした反知性主義に相当するものは見出しがたく、一元的な序列を所与とする権威志向が蔓延している。こうした中で、既存の価値序列に立脚しない真の反知性主義が求められていると言える。

感想

アメリカの反知性主義系譜について手際よく・かつ(上の要約では省いたけれども)さまざまな挿話を交えて概説する良書だった。一方で、日本においては知性主義も反知性主義も登場していない、「半知性主義」しかない、という指摘は、たしかに正しい側面もあるのだろうけど、そこで分析をやめてしまっては日本社会の反知性主義的な諸現象を捉えることはできないのではないか(同様のことを山形浩生書いている。この書評を読むとやはりホフスタッター『アメリカの反知性主義』を読まねばならないという気がしてくる)。少なくとも、単純な道徳主義だとか、自助と天助の結合といった観念は日本にも見られるもので、そうした事柄と知性観・知識人観との結合を見ていくのは重要な作業ではないかと思う。また日本における自己啓発などは本書に発生の過程が素描されているアメリカ的な理念とおそらく直結しているわけで、こうした事象の理解を深めるのには良かった。