読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

和辻哲郎に関する論文いくつか

共同存在ということに関連して、とくに『人間の学としての倫理学』に関する論文をいくつか読む。

濱井論文は和辻の「間柄の倫理学」とレーヴィットが『共同存在の現象学』(原文では『共同的人間論』)で提示した人間学の共通点と相違点を整理したもの。まず、両者には多くの点で並行性が見出され、明示的な言及はないものの、『人間の学』において和辻はレーヴィットにすでに多くを負っていると推測できる。例えば和辻にあって、私から物への志向性から存在論を基礎づけるハイデガーの試みは、志向性が本来「共同志向的」であるしだいを無視している。存(自己把持)-在(実践的交渉)を取り扱う「存在」論、すなわち人間存在の学、は有論 Ontologie に優越する。レーヴィットハイデガーからの偏倚もこれと同一の方向性を持っており、例えばレーヴィットが「現存在」の語を人間的現存在へといわば通俗化して用いるとき、共同存在こそが実存を根源的に規定し、したがって根源的な存在解釈を準備する、という見通しのもとでそうしているのだ。

他方で和辻の存在論は、ヘーゲル流の弁証法、および仏教的な無ないし空の弁証法、によって特徴づけられ、この点においてレーヴィットとの断絶がある。前者に関して言えば、和辻は「人間」をその二重の意味(人と社会)の弁証法的統一とし、もってその存在論を基礎づける。〈私-きみ〉関係である「二人共同体」さえ、一つの人倫的組織たる夫婦関係として確立されなければならない。こうして和辻の倫理学は畢竟「客体的・社会的な、マクロな社会学」(145頁)としてレーヴィットのそれと対立関係にある。

星野論文は和辻哲学全体の概観といった趣き。風土論に関してオギュスタン・ベルクという地理学者の論が紹介されている。曰く、和辻の風土論においては「通態性 trajectivite」の発生のプロセスが捨象されている、とのこと。全然知らなかったが訳書も結構ある

浜渦論文は和辻におけるドイツ哲学受容の紹介。とりわけ初期マルクスの受容など。フッサール志向性に対する和辻やレーヴィット木村敏などの批判を見直すべきである、という提言もなされている。