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K. レーヴィット『共同存在の現象学』

共同存在の現象学 (岩波文庫)

共同存在の現象学 (岩波文庫)

カール・レーヴィット(1897-1973)が1928年に出版した教授資格請求論文。ハイデガー現象学の方法論を導きに、フォイエルバッハ『将来の哲学の根本命題』で提示した人間学的原理を出発点として、探究を推し進める。

議論は I-IV の四部よりなる。 I (33-53頁)では『根本命題』から二つの原理が取り出される。一つは「感覚主義」であり、フォイエルバッハによれば、観想的な直観・感性的な感覚・感性的な愛こそが対照的・客観的な思考の基礎となる。これに導かれて、さらに「他者中心主義」の原理が生じる。すなわち「《私》ではなく〈私ときみ〉が、生と思考をめぐる真の原理である」(47頁)。こうした原理からは、第一に人間のみが客観的な――対象を自体において開示しうる――認識を与えうること、第二に認識が真理であることはそれが他者たちにとっても普遍的に真理であることによって保証されること、が帰結する。以上の見通しのもと、現象学的分析によって、フォイエルバッハの諸命題――特に《きみ》*1をめぐるテーゼ――を訂正し拡張することが目指される。かくして、II-IV ではそれぞれ次の問いに取り組むことになる。

  1. 或る者はどのようにして、他者たちのなかでひとりの《きみ》と出会うのか。
  2. 《きみ》は現実に、ひとりの〈私〉にとっての〈きみ〉にすぎないのか。
  3. 《私》は現実に、ひとりの〈きみ〉にとっての〈私〉にすぎないのか。(本書、52頁)

II-IV の内容の概観は手に余るので、覚え書き程度に書きつらねる。II では人間が他者たちの共同世界・製作品や自然物からなる周囲世界・自分自身という三方向に関係しており、さらにこれらの関係はばらばらにあるのではなく一つの構造連関においてあること、がまず確認される。それから共同世界に分析の焦点が合わせられる。ここでは第一に《私ときみ》のみが共同相互的に存在しうると主張され、以降では一者と他者という関係について中心的に議論される。両者は関係にそくして規定され(親に対する子、友人、といった役割)、ゆえに関係は両義性をもつ――つまり、ある他者に対してある意味をもつふるまいは、一般的に言って、自分にとってもある別の意味を有する。こうした関係が自立化しうることが、ピランデッロの戯曲(!)「お気に召すまま」の分析などを通じて示される。その後一転して、共同相互存在が互いに共に-語りあうことから捉え直され、会話の現象学的分析と、書き言葉との対比がなされる。

III ではさらに〈私-きみ〉関係に限定して話が進められ、《きみ》の自立性についてのシェーラー、F. エプナー、ゴーガルテンならびにディルタイの議論を見ていった後、ディルタイの問いの先駆者としてカント、またその批判者として(とりわけ『キリスト教の精神とその運命』など若年期の)ヘーゲルが振り返られる。IVでは《私》が共に在る人間に他ならないしだいが、キルケゴールシュティルナーのテクストを通じて述べられる。

巻末には長めの訳者解説が付せられており、内容はレーヴィットの伝記である。

以下は感想。『根本命題』の人間学の理念を嗣ぐと宣言しているだけあって、人間のありかたについての鋭い洞察があちこちに見られ、存在論・認識論的なハード・コアを度外視しても色々と得るところがある。神学的思索の人間学化というモチーフも一貫している。一方で、認識論的な帰結――ひらたく言って一種の真理の合意説――にはどうしてもにわかに同意しがたい部分がある。例えば注釈の一つでレーヴィットは数学的真理の絶対性を重視するフッサールと鋭く対立しており、ディルタイとともに共同世界が真理について事実上構成的であることを強調しているけれども、かなり議論が食い違っている印象を受ける。加えて共同相互存在に重点を置いているために、より公共的な共同存在が全体として軽視されている印象を受けた。もちろんないものねだりはできないけれども、ここからそこにどう接続できるのか、は気になるところ。あと第6節の「転移」に関する議論は本書全体の方向性に関わる場面でもあり、重要そうなのだけど、何を言いたい(何が言えている)のかいまいちよく分からない。

*1:《》は原文の „“、〈〉は原文で括弧なし。