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トリコロール

犠牲者たちを悼むために、自らの顔写真にフランス国旗を重ね合わせる行為が、現在多くの人々にとって極めて自然な行為であること。仮にこれが9.11以前のことであったとしたら、あるいは重ねられるべき国旗が星条旗であったとしたら、どうだっただろうか。政治現象に思考を定位するなら、例えばそうした問いが可能になる。なぜレバノン国旗ではないのか、といった問いが他方で生じる。これは当の政治現象になんらかのしかたで身を置く側から発されている。

いずれにせよそれは、あくまで政治現象の層において死者に哀悼の意を表する行為だ。人々はトリコロールを通じて、この世を去った N. A. や E. B. や M. M. ……に何らの注意を払うこともなしに、フランスの‐テロによる‐犠牲者たち、を悼むことができる。祖国の英霊を祀る無名戦士の墓と同じ機能をはたしていると言えるかもしれない。もっとも人々がそこで想像するのはネーションではない。

こうして象徴は人々の悲しみと想像力を捨象する。ここには一種の罠があって、それはいつでも今回のトリコロールほど分かりやすいものではない、と思う。けれども一方で、こうした象徴に媒介されずに死者を悼むことは――それが必要なことだとして――可能なのだろうか。例えばかつてシモーヌ・ヴェイユは、中国での飢饉の報を聞いて嗚咽した。ボーヴォワールはそれを見て、世界をまたぎ越える彼女の勇気を羨んだ、といったことを自らの回想録に記している。ヴェイユにとって、同様の罠を避けることははたして可能だったのか、可能だったとすればいかにしてか。