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寺尾隆吉『魔術的リアリズム』

魔術的リアリズム―二〇世紀のラテンアメリカ小説 (水声文庫)

魔術的リアリズム―二〇世紀のラテンアメリカ小説 (水声文庫)

魔術的リアリズム」という概念は、「ラテンアメリカらしい」文学を漠然と指す言葉として濫用され、それゆえに本質が見失われがちである。

魔術的リアリズムは、シュルレアリスムの影響のもと、マヤ的世界観を文学に結実させたアストゥリアス『グアテマラ伝説集』に萌芽する。その後カンペンティエールが「驚異的現実」論を提起し、驚異への信奉と同化を掲げて『この世の王国』をものする。いずれも反西洋合理主義に根ざした作品だが、前者においてそれは徹底されておらず、後者も同じく「驚異」の西洋性という矛盾を抱えていた。

アレオラ「転轍手」において、西洋/非西洋という対立は合理/不合理という枠組みに転換される。さらにルルフォ『ペドロ・パラモ』において主観的世界の客観化が完璧に実現される。これらを発展させ、「魔術的リアリズム」を完成させたのが、ガルシア=マルケス『百年の孤独』である。

百年の孤独』の語り手は、驚異的なものを日常的なものとして提示する。物語と語り手は相互に浸透しあい、バルガス=ジョサの言葉を借りれば「物語自体が語り手である」。

百年の孤独』の魔術性はまず、読者に現実への別視点を提供する。たとえば『百年の孤独』においては、殺戮がもたらす心理的衝撃がブエンディア大佐の悪寒という形で、またラテンアメリカの現実の政治権力のありようが十七人の息子の射殺という形で、象徴的に表現されている。同時にこの魔術性は、「公的歴史」への批判、ひいては現実世界で起こる想像を絶する事件を理解するための手はずでもあるーー「事実は小説より奇なり」という挫折を乗り越えること。

魔術的リアリズムはそれゆえに、社会的な闘いの文学ともなる。著者は『族長の秋』を、独裁者による「偽の魔術的リアリズム」を、「真の魔術的リアリズム」によって回復する試み、つまり魔術的リアリズムという原動力によって、独裁者によって築かれる神話から脱する試みであるとする。

ボルヘスやカサーレス、コルタサルといったラプラタ幻想派と魔術的リアリズムとの違い。視点が合理的か、共同体の構築がなされるか。『南部高速道路』などはこの意味で二つの中間的位置を占めている。

このようにして形作られたラテンアメリカ文学は、読者層の拡大に伴って大衆化し、コエーリョ『アルケミスト』やアジェンデ『精霊たちの家』に代表される商業的成功を収めるようになる。『精霊たちの家』は魔術的リアリズムとして宣伝されてきたが、本質的な意味での「魔術的リアリズム」ではなく、このようなコマーシャリズムが「魔術的リアリズム」の概念の混乱を招いてきたのだ、と著者は指摘する。